見下しきった悪意。
その言葉に、アイリスは生者の国でセリーナたちから幾度となく投げつけられたものと、全く同じ種類の冷たい刃を感じた。びくり、と。彼女の華奢な肩が恐怖に震える。せっかくジェームズとリリーの優しさに触れて、ほんの少しだけ和みかけていた心が、冷水を浴びせられたかのように、再び固く凍りついていくのを感じた。「……」アイリスが絶望の淵に沈みかけた、その時だった。すっと一人の骸骨が彼女の前に、盾となるかのように、静かに立ちはだかった。ジェームズである。
「エレオノーラ伯爵夫人」その声は、先程までの温かみのある響きとは打って変わり、どこまでも冷静で、刃のような鋭さを含んでいた。「アイリス様は、我が主君が、直々にお迎えになられた、大切なお客様。たとえ伯爵夫人といえども、これ以上の非礼は、王子への侮蔑となると心得てくださいませ」言葉は、丁寧であったが、その眼窩の奥で揺れる青い光は、逆らう者は誰であろうと容赦しないという、絶対的な意志を物語っていた。それと同時に、リリーが、ふわりとアイリスの隣に寄り添い、その半透明の腕で、優しく彼女の腕に触れた。「あら、姫様?どうかなさいましたか?どこかから、不快な羽虫の鳴くような音が聞こえましたけれど……きっと、気のせいですわね」その声はアイリスにだけ向けられた、甘い囁き。しかし、内容は、エレオノーラ伯爵夫人の存在そのものを、完全に無視する辛辣な皮肉に満ちていた。ジェームズとリリーに真正面から庇われ、エレオノーラ伯爵夫人は、その半透明の顔を、屈辱と怒りで、一瞬、醜く歪ませた。「ふん……。いつまで、その『お客様』扱いでいられることかしらね!」呪詛のようなそんな捨て台詞を残すと、彼女は現れた時と同じように、すぅっとその場から姿を消した。後に残されたのは、気まずい沈黙…ジェームズとリリーに両脇を支えられるようにして、アイリスはようやく、自室として与えられた部屋の扉の前まで戻ってきた。王子との対面……そして、あまりにも多くの常識外れな出来事。その全てが彼女の心と身体をひどく消耗させていた。道中、再びあの大書庫の前を通りかかった時には案の定、古代の哲学者たちの霊魂グループに捕まりそうになってしまった。『おお、そこの生者の姫君!ちょうど良いところに!我らの、この、魂の「実存」と「本質」に関する、三百年来の議題に、何か、新しい知見を……』そう言って、半透明の老人たちが、にじり寄ってきた時には、どうなることかと思ったが、「まあ、皆様。そのような、答えの出ないお話よりも先程、厨房のザルボー様が、『魂の抜け殻で出汁をとった、絶品のスープ』を、お作りになってましたわよ。早く行かないと、大食らいの幽霊たちに全部飲まれてしまいますわよ」というリリーの一言によって、哲学者たちは、「な、なんだと!」「わしにも一杯!」と、蜘蛛の子を散らすように消えていった。そんな珍道中を経て、ようやくたどり着いた自室の扉の前。アイリスは精神的にも肉体的にもへとへとになって、壁にぐったりともたれかかっていた。「つ、疲れました……」アイリスが、壁に寄りかかったまま、そう弱々しく呟くと、ジェームズが骸骨の顔にくすり、と苦笑いを浮かべた。「お疲れ様でございます、姫様。さあ、中へ」そう言ってジェームズがアイリスを気遣うように、ゆっくりと部屋の扉を開ける。そして部屋の中へと、アイリスが一歩足を踏み入れた、まさにその瞬間。「──ワンッ!」元気の良い鳴き声と共に、部屋の奥から小さな青い光の塊が、矢のような速さでアイリスの胸へと飛び込んできた。「きゃっ!」思わず、素っ頓狂な声を上げたアイリスは
王子の甘い囁きを最後に、遠のいたはずのアイリスの意識。しかし次の瞬間、彼女は我に返った。目の前に広がるのは、王子の温かな私室ではない。先程までいた、あの荘厳な扉の前であった。「……」すぐ目の前には、微動だにしない二体の冷たい骸骨騎士が変わらずに佇んでいる。(夢……?)鮮明な、しかし非現実的な先程までの出来事。その狭間でアイリスの意識は、ひどく混乱したままであった。(いえ、でも……あの、手の、温もりは……)自分の手のひらを見つめる。王子に握られたはずの手のひらには、まだ、不思議な温かさが確かに残っているような気がした。「姫様!」アイリスが、夢とも現ともつかぬ記憶の狭間で、呆然と立ち尽くしていると、ずっと扉の前で固唾を飲んで彼女の帰りを待っていたであろう、ジェームズとリリーが突如現れたアイリスに気づいた。二人は慌てた様子で、アイリスの元へと駆け寄ってくる。「ご無事でございましたか!」ジェームズの声には落ち着き払った執事としての威厳はなく、主を案じる心からの安堵の色が滲んでいた。「まあ、姫様!お顔の色が、真っ青ですわ……!一体、中で何が……?」リリーもまた、半透明の顔を、今にも泣き出しそうに心配の色で曇らせていた。二人の声にはアイリスの身を心の底から案じる、温かい響きが浮かんでいる。心配そうに、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる二人に対して、アイリスはうまく言葉を返すことができなかった。「だ、大丈夫、です……」そう答えるのが、精一杯だった。彼女の頭の中は鮮烈な出来事で、完全に満たされていたのだ。あの、全てを許す
自分を信じてくれる王子の温かい腕の中で、ようやく心からの安堵に浸っていた、その時。王子は名残を惜しむかのように、その身体を離した。そして美しい顔に、少しだけ申し訳なさそうな、苦しげな色を浮かべて静かに告げた。「残念ながら、あの公爵たちの許可を得る試練において、俺は直接君の力になってやることはできない。それもまた、この国の決して覆すことのできぬ、古くからの『掟』なんだ」しかし彼はアイリスを安心させるように、こう続けた。「だが、それは君を一人にするという意味ではない。俺はいつ、いかなる時も影から君のことだけを見守っている。この身の全ての力をもって、君を必ず守り抜くと、改めて誓おう」力強い誓いの言葉に、アイリスはこくりと頷いた。この人になら全てを委ねられる。不思議と、そう確信することができた。そして、安堵感からか彼女はずっと、心の片隅で気になっていた一番基本的なことを、尋ねてみた。「あの……わたくし、まだ、王子様の、お名前を……伺っておりません」すると王子は美しい貌に、今までにないほど優しく、どこか遠い昔を懐かしむかのような、柔らかい微笑みを浮かべた。「まだ、その時じゃないんだ。いつか、その時が来たら……君自身の口で、俺の名を、呼んでくれ」「え……?」謎めいた、そしてまるで答えを知っていることを前提としたかのような不思議な言葉に、アイリスは、きょとんとして小さな首を傾げることしかできなかった。その表情を見て、王子は楽しむかのように、喉の奥で小さく笑った。そして戸惑いを優しく流すように、話題を変える。「アイリス。今日はもう、自分の部屋に戻ってゆっくりお休み。君のために素敵な『プレゼント』を、部屋に用意したから。……気に入ってくれると、嬉しいな」「プレゼント……」思いがけ
アイリスがようやく表情を和らげ、心からの安らぎに浸っているのを王子は優しい瞳で、静かに見つめていた。彼は穏やかな空気を壊さぬように、語られる言葉の重要性を、響きに含ませて話を切り出した。 「改めて言うが、アイリス。君はここで、死ぬ必要はない」その言葉に、アイリスはこくりと頷く。「だが……」と、王子は続けた。「実は、冥府の国には一つだけ覆すことのできぬ、古くからの『掟』があるのだ」王子は、静かに説明する。この冥府の創生の頃より存在するという、絶大な力を持つ数人の「公爵」たちがおり、彼らがこの国の法と秩序、そして魂の環の均衡を司っていること。そして、古の掟によれば生者の世界の人間が、この国にその身を生かしたまま、永く滞在するためには──全ての公爵たちから、その存在を認められ「許可」を得なければならないのだ、と。「公爵さま方の……許可を、得る」重大な「掟」の話に、アイリスの心にようやく灯り始めたばかりの小さな安らぎの灯火が、再びかき消されそうに揺らめいた。「もし……もしわたしが、公爵様たちの許可を……得ることができなかったら……。その時はやはり……」その先を恐ろしくて口にすることができない。──殺されてしまうのでしょうか、という言葉にならない恐怖が、瞳を絶望の色に、再び暗く揺らした。「──アイリス」そんなアイリスの不安を拭い去るかのように、王子は静かに動いた。そして、椅子に座ったままの彼女の背後へとゆっくりと回り込む。アイリスが驚いて、身を固くする、まさにその瞬間。王子の逞しい両腕が、彼女の華奢な肩を、優しく後ろから、そっと抱きしめた。「!?」突然の、そして生まれて初めての、親密な行為に、アイリスの身体は、驚きと戸惑いで完全に、硬直してしまった。背中から伝わる、彼の確かな体温と、すぐ耳元で聞こえる、彼の静かな息遣い。そうして耳元で、王子が大切な秘密を打ち明けるかのように、絶対的な意志を響きに込めて囁いた。「大丈夫だ。俺が、君を、必ず、守るから……」その言葉を聞いた瞬間。「──」アイリスの心に一滴の雫が落ちたかのように、不思議な鮮やかな波紋が、広がった。(あれ……?この言葉……。どうして、だろう……?)それは、深い霧の向こう側。(昔、どこかで……。ずっと昔に、誰かにこうして言ってもらったような、そんな気がする……
アイリスの久しぶりの、心からの笑みを見て王子は、満足そうに美しい貌を綻ばせた。「少し、喉が渇いただろう。何か温かいものでも、用意させよう」そう言うと彼は、何もない部屋の空間に向かって、その名を、呼びかけた。「マーサ」王子の静かな呼びかけに応えるかのように、部屋の壁の一部が水面が割れるかのように、音もなく開いた。そして、奥の暗がりから小さな古い影が、姿を現す……。「はいはい、お待たせしました……」銀のティーセットが乗せられた小さなワゴンを、丁寧に押しながら。その姿を認めた瞬間、アイリスは思わず、息を呑んだ。現れたのは、頭のてっぺんから足の先まで麻の包帯で、ぐるぐる巻きにされた、一人の小柄な老婆であったからだ。それは、まさしく「ミイラ」そのもの。しかし、一度は硬直しかけたアイリスの心に、激しい恐怖は湧いてこなかった。(……この国は、本当に、色々な方が、いらっしゃるのね……)奇想天外な事実に、彼女は恐怖よりも先に、ある種の感心にも似た不思議な驚きを感じているだけであった。「生者の方は、このお茶を、きっとお気に召しますよ……」その声は掠れた、しかし優しい響きを持っていた。マーサはアイリスの前に来ると、包帯に巻かれた顔でにこりと優しく微笑んだように見えた。目元にあたる部分の包帯が、穏やかな三日月の形に、細められたのだ。彼女は、それ以上は言葉を発することなく、長年の経験に裏打ちされたであろう流れるような美しい所作で、ティーカップに透き通るような琥珀色のお茶を注いでいく。カップの中で、小さな透き通るような青い花びらが、優雅に開いていくのが見えた。カップからは心を、解きほぐしてくれるような、甘く優しい香りが、ふわりと立ち上っていた。
『花嫁』──。その甘い響きを持つ言葉が、アイリスの頭の中をぐるぐると、意味もなく巡っていた。王子に握られた手のひらの、信じられないほどの温かさと、目の前のこの世ならざる美しい青年の姿。全てが、自分を惑わすための甘美な残酷な夢のように思えてならなかった。やがてアイリスは、震える唇を必死に動かした。ずっと心の奥底に鉛のように重く沈んでいた、最も根源的な恐怖を確かめなければならない。「わたくしは……『生贄』として、この国に……捧げられて、死ぬのでは、なかったの、ですか……?」その声は途切れ途切れで、ほとんど音にもならなかった。しかし瞳は必死に、目の前の王子の答えを求めていた。アイリスの悲痛な響きを持つ言葉を聞いた、まさにその瞬間。王子の、それまで、どこか寂しげながらも、穏やかであったはずの表情が、初めて明確に変化した。美しい双眸に、極北の冬の嵐のような、氷のように冷たい激しい怒りの色が、過ったのだ。「死ぬだって……?」びくり、と。アイリスは、反射的にその身を硬直させる。だが、その怒りが自分に向けられたものではないことを、彼女は直感的に理解した。何故なら、彼女の手を握る王子のその手の力は、先程よりもむしろもっと優しく、慈しむかのように強くなったからだ。その怒りは、彼女にそんな愚かで、残酷な偽りを信じ込ませた、生者の世界の者たちへ確かに向けられていた。やがて王子は怒りを静かに、美しい貌の奥底へと押し込めると、アイリスを安心させるように告げた。「──死ぬなどと、愚かな。それは、真実の意味を忘れ去った、生者たちの身勝手な思い込みに、過ぎぬ」その衝撃的な真実に、アイリスの頭は真っ白になった。今まで自分を縛り付けていた、死への恐怖と、生贄としての覚悟。全てが、音を立てて崩れ去っていく。安心、と呼ぶにはその衝撃は大きすぎた。ふっと、